ジンジャー・タウン

星谷周作創作坊

ききバラ園

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ねむの里を散策した帰り、

 

ききバラ園の前を通りかかった。

 

背の高い鉄格子の塀で囲まれた

 

そのバラ園には、

 

色とりどりの珍しいバラが植えられており、

 

自由に〝ききバラ〟を楽しむことが

 

できるようになっていた。

 

僕はしばし足を止め、このバラ園を眺めた。

 

鉄格子に絡まるように伸びた蔦には、

 

紫のバラが咲き乱れ、

 

凛とした苔のような匂いを放っていた。

 

「ききバラをされるのであれば、

 

ご遠慮なく中へお入りください」

 

顔を上げれば、

 

タキシードを着た初老の紳士が、

 

鉄格子の向こうからこちらを見ていた。

 

僕は入口からバラ園の中へ入った。

 

中には本当にさまざまなバラが

 

所狭しと咲き乱れていて、

 

何一つ同じ種類のものはなかった。

 

「あなたはどんなバラが御所望ですかな」

 

紳士に訊かれ、僕はしばし考えた。

 

「故郷を思いださせてくれるような、

 

そんな懐かしいバラはありませんか」

 

紳士はしばし僕の目を凝視していたが、

 

やがて「少々お待ちください」と言うと、

 

どこか奥の方へと去っていた。

 

アゲハチョウ、モンシロチョウ、ミツバチ、

 

黒アゲハ、様々な昆虫が飛び交う中、

 

僕はバラを観賞しながら紳士を待った。

 

やがて、

 

紳士がバラの鉢植えを抱えて戻ってきた。

 

「ちょうどいいものがありましたよ」

 

紳士が鉢植えをテーブルの上に置いた。

 

鉢植えの苗に花はなく、

 

紫がかった葉がついた株の間から、

 

深紅の実がいくつか垂れ下っている。

 

「これはスズバラの一種ですよ。

 

普通は秋にならないと実ができないの

 

ですが、これは特別な場所で育ったので、

 

こんな時期に実を付けているのです」

 

「花はないのですね」

 

どんなに美しいバラの花が見られるのだろう

 

と期待していた僕は、

 

少しがっかりしながら呟いた。

 

「花は重要ではありません。

 

重要なのはどんな実を結ぶかですからね」

 

そう答えると紳士は鉢植えのバラの実を

 

ひとつもぎ取ると「どうぞ」と言って、

 

僕の手のひらにその実を載せてくれた。

 

僕は人差し指と親指で、

 

楕円形の実をつまみあげ、

 

日光にかざして見た。

 

紳士が少し顎を突き出しながら、、

 

人差指で僕の口を指示した。

 

どうやら、食べろ、ということらしい。

 

僕は恐る恐る、その実を口に運んでみた。

 

噛み砕く勇気がなく、

 

舌の上でしばらく転がしていると、

 

空中から突然、黒い羽を広げたカラスが、

 

こちらに向かって突進してきた。

 

危ない、と思って身をかわした僕の隣を

 

カラスがすり抜け、鉢植えのバラの実を

 

くちばしでもぎ取ると、

 

再び空中高く飛び去って行った。

 

口の中が痺れはじめた。

 

カラスを避けた弾みに、

 

僕は口の中にあった実をの実を

 

噛み砕いてしまったのだ。

 

そして、やばい、と思った時には

 

時すでに遅しで、

 

すぐに全身の感覚がなくなってしまった。

 

身体を制御できなくなった僕は、

 

地面にくずおれるように横たわっていた。

 

身体が粒子に分解されるような感じだ。

 

「ああ、このまま自分は消えるのだな」

 

と僕は思った。

 

そして、しばらくして我に返った。

 

光の敷物を敷いたような世界が

 

目の前に広がっていた。

 

僕はやっと戻ってこれた安堵と懐かしさで、

 

ひとり歓喜していた。